宮古復興支援ツアー2日目

前日にホテルに着いた時はすでに暗くなっていて気がつかなかったが、朝起きて窓から見えた風景にびっくり。

朝食もごちそうで、おいしくいただいた。

朝食の後、ホテルの支配人のお話。
・ホテルは震災でも無事だった。
・直後は避難所として、その後は全国から集まった警察官の宿、そして復旧・復興関係者の宿として機能した。
・ホテルの使命は地域コミュニティ。
・避難所としての役目を終えるときに、住民たちがねぎらいの言葉をかけてくれたのがうれしかった。
・警察官はピーク時には500人が泊まっていた。部屋が足りなくて、ラウンジにも布団を敷いて休んでもらった。
・8月からは一般客の宿泊を再開。
・ホテルでは本来は夕食は部屋で食べてもらうのだが、仲居の数が少なくなってしまったのでバイキング式にしてみたが、意外と好評だった。
・震災で人工物は壊れたが自然は残った。
・東京などに営業に行くと、観光に来ていいのと言われるが、心配ない、どんどん来てください。来てもらうことが励みになり支援になる。
・ホテルは観光の復興を目指して3月8日にリニューアルオープンした。


ホテルを出て、最初に向かったのは宮古市内の魚菜市場。三陸と言えばやはり海産物だろう。昨日食べた毛蟹とかホタテなどが並んでいる。見ているだけでも楽しいが、消費して経済活動にも貢献しなくては。ここで海のものを中心としたお土産を買った。


再び浄土ヶ浜に戻り、観光遊覧船に乗った。乗ったとたんに海猫の群れがやってきた。船の中では海猫のえさ「うみねこパン」が売られていて、観光客がそのパンを投げてくれるのを知ってて船の周りに寄ってくるらしい。猫みたいににゃあにゃあ鳴いていてとてもにぎやかだ。うみねこパンは人間が食べても大丈夫とのことなので味見してみたが、海藻風味のパンだった。

この遊覧船では三陸海岸を海から眺めることができる。船ガイドさんの案内で景色や風土の案内をしてくれるのはもちろんだが、震災の時の話も当然出てくる。
そこで聞いた話。
・会社では遊覧船を3艘持っていたが、そのうち2艘は流されてしまった。
・残ったのが今乗っている船で、ちょうど地震があったときにお客さんを降ろしたばかりでエンジンがあったまっていた。そのためすぐに沖に出ることができた。もしエンジンが止まっていたらそうはいかなかっただろう。
・地上では津波警報が出ていたので、そのまま沖で48時間待避していた。食料はなかったが、うみねこパンがあったのでそれを食べて飢えを凌いだ。
自衛隊のヘリコプターからも物資の供給を受けた。
・ようやく遊覧船の運行を再開した時、すっかり変わり果てた景色を見て涙が出てしまった。
・しかし壊されたのは人工のものばかり。自然物は何事もなかったように残った。


乗り場に戻るときには船ガイドさんが「喜びも悲しみも幾歳月」を歌ってくれた。灯台守の歌詞が今見た景色と相まって涙が出そうだった。

船から降りてバスに少し乗って雪に覆われた浄土ヶ浜に移動した。ここにも人慣れした海猫がいる。近くに宮沢賢治の歌碑を発見した。僕が昔岩手に来たのも、宮沢賢治石川啄木の世界を訪ねるためだった。



浄土ヶ浜を後にして、今日はこれから三陸沿岸部をずんずんと北上する。その途中、バスガイドさんが3月11日のことを話し始めた。
あの日は2泊3日の行程で今回とは逆に三陸沿岸を北から南に向かう旅行の途中で、11日はちょうど先ほどの浄土ヶ浜にいたそうだ。いつもとは異なる激しい揺れに驚いたが、その後すぐに緊急時対応を思い出し、津波を恐れてお客さんをバスに乗せて上の方へと走らせた。狭い道で途中では木が倒れたりしていたが、バスも少なかったため無事に避難できたそうだ。しかしその後が大変で、その日は現地にとどまって過ごした。翌日東京方面に戻るお客さんを帰そうとしたが、いつも通る道は通行不可能となっていた。そこに地元の人が道案内を買って出てくれて、盛岡まで戻ることができた。そして東北新幹線は普通になってしまったため、バスで秋田の方を経由して新潟まで行き、上越新幹線に乗って帰ってもらったとのことだった。


バスは岩泉村の小本地区に入った。ここでは小学校の裏手にある階段のエピソードを紹介してくれた。
以前から津波からの避難ルートがあるにはあったが、それは海に向かう方向だった。津波から逃げるのに海に向かうのはおかしいだろうと町長さんが国土交通省に掛け合って、学校の裏手にある国道に逃げられるように階段を作ったそうだ。それにより避難時間が7分ほど短縮されて、今回の津波でも大きな被害を免れたとのことだった。

参考資料:児童88人を救った「運命の避難階段」



次の目的地は普代村だったが、昨日とは打って変わって天気がよいため、Mさんが急遽ルートを変更して、鵜の巣断崖を案内してくれた。
バスから降りて雪が積もるアカマツ林を抜けると、そこには三陸海岸を一望できる展望台があった。遊覧船でちょっと船酔い気味だったけど、素晴らしい風景に一気に酔いが醒めた。


次は普代村の普代水門。高さが15.5mもある巨大な水門で、建設当時は批判もあったそうだが、当時の村長が15m以上を譲らなかったそうだ。その結果今回の津波被害はなかったそうだ。まったくもって普代村民を救った普代水門である。


バスは北に向かい、次の目的地は野田村。国民宿舎野田えぼし荘。ここで昼食を取りながら地元の漁師さんの話を聞くというもの。昼食は地産地消弁当で、蛸飯を始めとして、ホタテの刺身やフライ、鮭、椎茸、茄子など魚介類と野菜がたっぷり入ったものだった。とは言うものの量も多くて全部食べられるかと心配したが、結局おいしく頂いた。


話をしてくれたのは地元の観光協会のKさんと漁師のKさん。野田村はホタテ、わかめと塩などが特産品。今回の震災で沖に浮かべた養殖台800台や船が流されてしまって途方に暮れてしまった。しかし定置網は残った。野田村はホタテの小さいの(中成貝)の出荷が許可されている県内唯一の産地とのことで、山田村の方に出荷しているのだが、最近では野田村で成貝まで育てて売ろうとしているとのこと。ホタテは種から成貝になるまで3年かかるそうだ。

観光協会のKさんは国民宿舎から街の中心部までの間も一緒にバスに乗って、バスの中から野田村のことを話してくれた。村の復興計画では海沿いに第一堤防を築き、その内側に盛り土なので第2、第3の堤防を設け、居住エリアは第3の堤防の内側にする計画だそうだ。


三陸沿岸部では最後の訪問地となる久慈市では、街中にある道の駅「やませ土風館」でお土産を購入した。


ここから盛岡までは途中から高速道路も使って一気に移動。途中はぐっすり眠っていた。


盛岡では最後のお楽しみ、わんこそば体験が待っている。
初駒本店というお店の2階に案内されると、すでに薬味が並んだ膳が用意されていた。給仕のお姉さんの説明が始まり、椀を持って上の方に掲げて、と言われるままに椀を持つとそこからいきなりわんこそばの始まりだった。一口で流し込めるくらいのそばがつぎつぎと運ばれてくる。お姉さんが「どんどん」とか「まだまだ」とか合の手を入れながらそばを入れてくれる。汁は飲まないで大きな椀に捨てるのだそうだ。ときどき薬味の種類を変えると飽きずに食べられる。いくらでも食べられそうな気がしたが、ふと帰りの新幹線の中で苦しくなってしまうことを想像してしまい、まだ入るかなと思うところで椀の蓋を閉めた。蓋を閉めるのがごちそうさまの合図となる。記録は42杯だった。給仕のお姉さんはテーブルに一人ついてくれて、最初は5人分をまとめて面倒見てくれるのだが、一人二人と食べ終わると残った人への給仕が集中するから最後は1対1の勝負となる!食べ終わるそばからほいっと入れられるのでやめるタイミングがむずかしそうだ。周りで見ている人も大爆笑。ひとり旅では味わえないわんこそば体験だった。


そして1泊2日の勉強と観光の旅が終わった。

今回の旅で、バスの人もホテルの人も、誰もが来てくれてありがとうと言ってくれた。そして帰ったら他の人にも来てと言ってほしいとも言われた。

そう、岩手は今、復興を目指して頑張っている。地元の人にとって、忘れられることが一番悲しいことだと思う。だから言う、どこか旅行に行くなら岩手に行ってみて!岩手だけでなく東北でもいい。自分は何にも復興に貢献できていないと思っている人も、観光に来てくれることだけで励みになるということを憶えていてほしい。


この2日間の写真はfacebookのアルバムにて。