6回目となった「みとびと」は、前回に引き続き水戸芸術館のホームムービングと共催となりました。
今回のゲストは水戸市の元助役だった飯村陽一さん。今までのゲストは市民側からの視点でしたが今回はバリバリの行政側からのお話を聞くことになりました。
飯村さんは昭和8年生まれ。今水戸芸術館となっている五軒小学校に入学し、旧制水戸中学校入学、新制水戸一高を卒業し、大学は東京に出たそうですが昭和31年に水戸市役所に就職し、平成8年に助役として退職するまで5人の水戸市長に仕えました。
飯村さんが就職した時の水戸市役所はまだ水戸駅北側の今の京成ホテルの場所にありました。そこは土地が狭く不便だったとのことで、水戸駅の南側(駅南)に市役所を移転することとなり、それが今日のお話の1つ目のテーマである駅南開発の話になりました。
これは駅南に移転する前の市役所の写真です。
飯村さんが担当した市役所の窓口改革では、1階のフロアにベルトコンベアーを設置して職員が歩き回らなくても書類のやりとりができるようにした話などを伺いました。ちなみにこの時の市役所の建物は東日本大震災で被災して使えなくなり、最近になってやっと新しい庁舎に建て替えられました。
それから、2つ目は水戸駅南口のお話です。当時の水戸駅は北側にしか入り口がなく、昭和49年の茨城国体に向けてやっと南口ができた、という話でした。当時の国鉄の水戸鉄道管理局長が飯村さんの小学校の同級生だったとかで、市長からは局長とうまく話をつけてくれ、と期待されていたとのこと。いろいろ紆余曲折があってなんとか南口ができた(実際に昔の水戸駅で電車を降りて南口に出るには長い通路を通っていくのですが、確かに途中で曲がっていたことを思い出しました)のですが、駅の改札内になるため、駅南に住む小学生が北側の三の丸小学校に通うのに千波大橋を通るのでは随分と遠回りになるので、定期入場券をわざわざ買って通っていたとのこと。そこで飯村さんたちは水戸駅に南北自由通路を作るのを目指しましたが、国鉄も金がない。水戸市が金を出すなら作りましょう、ということで国鉄の末期、昭和59年にやっと橋上駅舎となり南北自由通路ができたのが感慨深かった、と語っていました。
この写真は橋上駅舎になる前の水戸駅の北口。
3つ目の話題は五軒小学校と水戸芸術館のお話。五軒小学校の前身は水戸市上市尋常小学校で、横山大観も一時通った水戸で一番古い小学校とのこと。ですが校庭が狭いため移転することになりました。その移転計画を当時の和田市長から任された飯村さんですが、和田市長は同じ町内に移転先の土地もあるのですんなりと決まるはずと楽観していたものの、実際には歴史のある小学校ですから様々な分野の重鎮となったOBOGからは移転に反対する声が多数上がったそうです。和田市長は商売人の出身らしく小学校移転後の跡地には商業施設を作りたかったそうです。しかし移転計画が3年遅れたため移転を見ることなく昭和59年に和田市長は勇退し、次の市長となったのが佐川さんです。この佐川さんが跡地計画を0から見直して作ったのが今お話を聞いている水戸芸術館なのです。僕が水戸で一番好きな場所である水戸芸術館ですが、移転計画が予定通りに進んでいたら今や世界に誇る水戸芸術館はなかったのだと思うとぞっとします。一緒に話を聞いていた水戸芸術館の担当者も大きく頷いて話を聞いていました。なんともスリリングな話でしたが、先見の明があった佐川市長の決断に改めて感嘆します。
平成2年に水戸芸術館がオープン。水戸芸術館といえばクネクネしたタワーですが、できた当初は僕自身もこのタワーに違和感を覚えましたし、塔の中に入ってエレベーターで上に上がっても展望が開けているわけではなく小さな丸い窓から覗くだけです。このタワーについても設計した磯崎新さんに飯村さんが訪ねたところ、シンボルタワーはまさにシンボルなのだから立っているだけで充分、との返事だったそうです。実際に今では水戸で大きな地震があるたびに近くのNHKからのカメラにこのシンボルタワーが大きくうつされるので、水戸に芸術館のタワーあり、とまさに水戸のシンボルになっているのです。磯崎さんもやはりすごい人です。
この写真は五軒小学校が移転する前の1983年(昭和58年)の創立110周年の写真。
ここに書いた以外にもいろいろとおもしろいお話を聞くことができましたが、この辺でみとびとは終了。休憩後に今度はホームムービング。みとびとの話題にちなみ、昭和41年に駅南にできた県民文化センターの様子と、昭和45〜47年頃の水戸市政ニュース3本のデジタル化された8ミリフィルムを鑑賞しました。飯村さんは引き続き映像の解説としてお話をしてくれました。
「水戸市の教育」というニュースでは、当時の木村市長が市内の全小中学校にプールを作らせたエピソードを飯村さんが話してくれました。木村市長は江戸時代の水戸藩武士の泳法であった水府流の先生でもあったそうです。ニュースに写っていた青柳プールは僕も子供の頃にバスに乗って泳ぎに行った思い出があります。
「市民憲章の実現へ」というニュースでは、飯村さんが千波湖の蓮が増えすぎて除去するのに千波湖の水を全部抜いたことがあった、という驚愕のエピソードがあることを教えてくれました。その後魚がいなくなってしまい、水を抜いた担当者が左遷されたとかなんとかという後日談もあったそうです。
毎回興味深いお話が聞ける「みとびと」ですが、今回も大満足でした。