宮古復興支援ツアー1日目

いわき市にボランティアに通うきっかけとなった勤務先の社内SNSで、今度は岩手県宮古市を中心とした沿岸部の現状を知り、観光で復興支援をしよう、というツアーのお知らせを目にした。知らせてくれたのは、コンサルティングの業務を行っている人で、今は宮古市役所に入って業務を行っているとのこと。

震災以降、いろんなかたちで復興支援を行おうと思って福島県宮城県には実際に足を運んだのだが、対象範囲も広いのでついに1年のうちに岩手県には行けずじまいだった。そのこともあり、今回のツアーで岩手県の様子を知ることができると思い、8月にいわきに一緒にボランティアを行った人も誘って、参加することにした。

盛岡駅に現地集合、現地解散となるこのツアー。茨城を朝5時の電車で出れば盛岡に10時に着いてしまう。一旦上野まで南下しなくてはならないのがちょっと腑に落ちないが、それでも新幹線は速いということだ。東北新幹線に乗ることや岩手に行くこともおよそ20年ぶりくらいか。ちょっぴりうきうきしつつ、それでも震災被害にあった地域に行くのだから浮かれすぎないように気をつけよう。

新幹線で郡山を通過。車窓からは母校が見えるはずだったが気がついた時はもう通り過ぎていた。福島付近からは雪。このあたりは東北道とも並走している。スコップ団の活動で宮城県に行くときに通った道だ。そして仙台。最初は顔も名前も知らない人が住む街でしかなかったのが、今では大切な仲間が住む思い出の街となった。

盛岡駅でツアー参加メンバー11名が合流。ここから岩手県北バスの小型観光バスに乗って国道106号で宮古市に向かう。

バスの中で、県北バスの添乗員Hさんから今回のツアーの概要についてレクチャーを聞く。Hさんは、途中言葉に詰まりながら、地元に住む人の実感として岩手県のこれまでの1年間の状況を説明してくれた。沿岸部の親戚に行方不明者がいるそうで、そんなときに今回のような被災地を回るスタディツアーをやっていいものかだいぶ悩んだそうだ。でもこの企画をきっかけに前に進みたいと話してくれた。

国道106号線は内陸から沿岸に向かう重要なルート。津波で沿岸部が壊滅的な被害を受けた時、まずは内陸の東北道を復旧させ、次に東北道から東に向かう道路を何本も復旧させることで支援ルートを確保した「くしの歯」作戦の舞台だ。

参考資料:国土交通省東北地方整備局道路部 「くしの歯」作戦について


3月も終わりというのに峠道はまだ雪深く、路面も凍結している。岩手はまだ冬だった。


宮古市中心部につくと、まずは昼食。JR宮古駅前にある蛇の目寿司でお寿司を食べた。ここでこのツアーを企画したMさんが合流し、簡単な自己紹介タイムとなった。ほとんどは東京近辺からの参加者のようで、社外の人も何人か混じっていた。

昼食の後は宮古市役所に行く。

閉伊(へい)川のすぐそばにある市役所庁舎は、津波により1階と2階が閉鎖されて復旧工事中で、3階以上で業務を行っているとのこと。僕たちは4階の会議室に通された。ここでは宮古市の復興推進室長のTさんから話を伺った。


本州の最東端にあるという宮古市の概況から始まり、まずは宮古市の被害状況。
・最大震度は5強。
津波の最大波到達時刻午後3時26分、高さ8.5m以上。
・「以上」となっているのは器械が壊れて測定できなかったためとのこと。
・会議室の時計も3時23分で止まったままだが、これはメモリアルとして残してあるわけではなく、1階の機械室が被災したため時計装置が動かなくなってしまっているとのこと。
・死亡者は526人、負傷者は33人。
・死亡者の数に比べて負傷者が少ないのが津波被害の特徴で、生きるか死ぬかのどちらかしかないということ。
・建物の被害は全壊3,699棟、半壊1,006棟など。被害推計額は約1,975億円。そのほかにも間接的な被害もあり、市の年間予算は約300億円なので、復旧するだけでも10年近くかかるだろうということになる。

ここでモニターを使って津波到来時の映像を見る。

ちょうど地元テレビ局のカメラが市役所で取材をしていたので撮影したという。写真や映像で見たものの元映像だ。

ちょうどこの会議室からも閉伊川が見える。その閉伊川がみるみるうちに溢れて堤防を乗り越える、その撮影現場に自分もいると思うと言葉が出なくなってしまった。


再びTさんの話。今度は復興に向けての状況説明。
仮設住宅は62団地2,010戸で8月にはすべて入居完了。
被災前の居住地に近い場所を選定したが、学校の敷地は極力避けた。これは仮設住宅といえども数年は存在するものであり、子どもたちのグラウンドを数年も占領するのはよくないと考えてのこと。
・入居に関しては単純に抽選ではなく、地域コミュニティをなるべく維持して決めたとのこと。
・戸数も余裕を持たせて整備し、世帯構成に合わせて柔軟に対応できるようにした。
仮設住宅は全国統一の規格であり、そのために早く建設できるというメリットはあるのだが、東北では耐寒性や結露対策が不十分で、追加の工事を行わざるを得なかった。
宮古市復興計画は住民による検討会も150回行い、3月31日に策定する予定。
・決定までの時間はかかったかもしれないが、急いで決めても住民不在では意味がない。住民の意見を最大限尊重したつもり。
・検討会では100人100様の意見が出たが、あまり否定的な意見は出なかったのが意外だった。

最後に質問タイム。
・震災に対する反省としては、通信手段が断たれたことだった。
・衛星電話は震災後に整備した。誤算だったのは市役所の自家発電機が1階にあったため使えなかったこと。
・市役所は40年前の建物で、当時は階上には作れなかったのかもしれないが、残念だった。
・余談としては、電話が使えなかったので、苦情の電話もなく仕事に専念できたこと。
・支援で助かったのは、パートナー協定を結んでいる関西地区の府や市からの応援で、国からの応援とは違って即戦力となった。窓口業務にもついてもらったが、高ぶっている市民の気持ちも関西弁で対応してくれると気持ちが落ち着いてくるようで意外な効果があった。


参考資料:宮古市被害状況/記録写真



市役所を後にして次は田老地区に向かう。田老地区には10mもの高さのX状の大堤防、別名「万里の長城」があったのだが、その堤防も一部が壊れ、堤防を乗り越えた津波が街を襲ってほとんど更地に変えていた。この日は雪のため瓦礫も目につかず、本当にここに街があったのかと疑うくらいだった。

宮古市街地もこの田老も、高い堤防の内側にいると外側の海の様子はうかがえず、すぐそばまで津波がきていることに気がつかないということが実感できる。これだけの堤防があるのだから大丈夫だろうと安全を過信してしまうのが怖い。

堤防と堤防の間に挟まれた地区も建物がすべて無くなっていたが、唯一残っているのがたろう観光ホテルだ。6階建ての建物のうち2階までが鉄骨だけになり、3階も壁が抜けている。しかし4階以上はホテルの客室がそのままになっており、シュールな光景だ。津波を思い出すので片付けたい、という気持ちもあるだろうが、このホテルの社長さんは津波遺産として残したいと考えているそうだ。今日も都合がつけばお話を聞くことになっていたのだが、他の用事があってお会いすることはできず、建物を見学するだけに終わった。


次いで行ったのは小堀内漁港。津波が陸上のどのくらいの高さまで届いたかを表すのが遡上高というが、この漁港では37.9mと今回の津波では最大の高さだったらしい。三陸リアス式海岸では津波の高さが10m,20mの単位で語られるのでいったいどのくらいの高さなのかと頭がくらくらする。この地区でも亡くなった方がいるらしく、道路沿いには花が手向けられていた。


資料:東大地震研 広報アウトリーチ室




次はグリーンピア三陸みやこに作られた仮設住宅街の中の、復興商店街「たろちゃんハウス」に行った。県北バスのHさんによると、この仮設商店街に、観光バスで乗り付けてよいものか直前まで迷っていたそうだが、調整の結果行っても構わないということになった。

たろちゃんハウスはA棟からC棟まであって、ここでおやつやら夜の部の食料などを買い込んだ。



この日の宿は浄土ヶ浜にある浄土ヶ浜パークホテル。ここでは避難所として機能した体験談を伺う予定だったが、都合により翌朝に伺うことになった。部屋に荷物を置きお風呂に入った後で、バイキング式の夕食となった。出された料理は毛蟹、ウニ、ヒラメなどの海の幸、山菜の天ぷらを始めとする山の幸、すべて岩手名物のものばかり。たくさん種類があって迷ってしまう。お酒も当然地酒。3種類あったので全部頼んでみた。苺煮とかひっつみ汁とかも初めて食べてみた。

あっというまにレストランの閉店時間となり、ホテルの売店にあった日本酒を買い込み、続きは部屋で飲むことに。
部屋飲み用に買った酒の一つが地元宮古市の「千両男山 フェニックス 復興弐号」。唯一蔵元に残った酵母から作られたお酒とのこと


何時まで飲んだかわからないが、飲んだ飲んだ。