今日からは一日の移動距離は少なくなり、その分あちこちで様子を見ることになります。
朝はまず宮古市役所に行ってみました。2年前はスタディツアーだったので市役所の中で職員の方に話しを聞かせてもらったのですが、今回は個人で来たので中には入らずに外から見るだけです。市役所の公用車の駐車場には復興支援の一環として市に貸与された一人乗り電気自動車が置いてありました。
それからいよいよ国道45号線に沿って南下する旅が始まります。国道45号線は仙台市から太平洋岸に沿って青森市まで通る国道ですが、今回の震災ではこの45号線が至る所で寸断されて復旧に支障が出た道路でもあります。宮古市の次は山田町ですが、ここでは元の町の中心部と思われるところで復旧工事が行われていました。海の方では養殖棚が並んでいました。カキの養殖でしょうか?
次に行ったのは大槌町の吉里吉里です。ここはかつて井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」が出たときに話題になったところです。中学生か高校生の頃に小説で読んで以来気になっていたところでしたが、やっと来ることができました。続いて大槌湾に浮かぶ蓬莱島の近くに行きました。ここも井上ひさしさんの作ったひょっこりひょうたん島のモデルとも言われている島です。島と言っても近くの浜から防波堤でつながっていましたが、その防波堤は津波で破壊されて今はまだ復旧工事中でした。この時ちょうど昼の12時になって町の防災スピーカーからひょっこりひょうたん島のメロディが流れてきました。先ほどの吉里吉里と併せて、井上ひさしさんと縁のある町のようです。
大槌町中心部に行くと、町長さんが犠牲になった町役場の建物が残っており、慰霊碑があったのでお線香をあげてきました。
役場近くの江岸寺は墓地が裏手の高台にあったので登ってみると町が一望できましたが、見渡す限り建物がなく、町が消えたという事実が手に取るようにわかります。ふと目についた墓銘碑には3月11日の日付が多数刻まれているのが印象に残りました。
大槌町の隣が釜石です。最初は鵜住居地区に行ってみます。ここには鵜住居地区防災センターがありました。その施設では過去には避難訓練でここに避難したこともあったため今回の津波のときにも多くの住民が避難したものの、実際には一次避難所は高台にあって、そこは被災者が生活する時に使う避難所として想定していた施設だそうです。しかし今回の津波はこのセンターを襲い百人以上の住民が命を落としました。そんな悲劇の舞台となったその建物はすでに取り壊されていて、替わりに追悼施設が設置されていました。
鵜住居地区の近くにある根浜海岸には宝来館という旅館があり、ここでは防災学習の話しが聞ける旅館ということで気になって行ってみたのですが、宿泊客でないと話を聞くのは難しそうだったのでそのまま引き返しました。
この日は釜石泊まりですが、まだ時間があるし、せっかく釜石に来たので鉄の歴史館を見学しました。
釜石は三陸地方には珍しい工業の街です。近代製鉄の父、南部藩士大島高任は水戸藩主徳川斉昭に呼ばれ那珂湊の反射炉を造ったとのことで、釜石に親近感を覚えました。
なぜかこの鉄の歴史館には昨年末に亡くなったミュージシャンの大瀧詠一さん追悼コーナーがありました。後で知ったのですが、鉄の歴史館の館長さんが大瀧さんと高校の同級生だったそうです。
さて、この日の夜のお楽しみは呑ん兵衛横丁です。泊まったホテルには「ほろ酔いパック」というのがあって、2000円でチケットと一合升を受け取ります。
このチケットでビール1本と日本酒1合、それに料理3品がついてくるのです。呑ん兵衛横丁とはもともとは街なかにあって製鉄所の労働者たちに親しまれていたのだろうと想像できるのですが、津波で流されてしまったので仮設商店街の一角に移動してあるのでした。この横丁で飲むのも立派な復興支援です。飲んで応援なら得意なので任せなさい。
まずは「和」というお店に入りました。まだ早い時間のせいかお客さんはまだ誰もおらず僕一人でした。チケットを見せると、ビールにお酒は釜石の地酒、浜千鳥。それと、たまねぎとカニのサラダ、ヤリイカ、焼き鮭が出てきました。おかみさんの話を聞いているとお酒もすすみます。熱燗でもう一杯浜千鳥を頼むと、今度は銘柄の入った徳利とお猪口で出してくれました。釜石では間もなくイオンの大きなショッピングモールができるようで、おかみさんもだいぶ気になっているようでした。話題のお店ができることで街が賑やかになるでしょうが、地元で商売をしている人に取ってはどうなんでしょうか?その辺りが気になってしまいました。
続いて入ったのは「向島」というお店。こちらのおかみさんは東京にいたことがあるそうで、それでお店の名前も向島にしたそうです。釜石で5年お店をやっていて地震にあったそうです。こちらで飲んだのもやはり浜千鳥です。
今日は2軒はしご酒をして、昨日の宮古でもそうでしたが、お店に入る度におかみさんとかお店の常連さんと会話してると3年前の津波の様子とかその後の避難所やら仮設住宅での生活の話を聞かせてくれて、本当に苦労したんだろうなと思います。そういう生の話を聞けたことでここまで来た甲斐があったと思います。